【わかりやすく】糸賀一雄の名言「この子らを世の光に」の意味とは?

社会福祉士・合格問題編
皆さん、こんにちは!いっちー教授(@free_fukushi)です。

今日も社会福祉士国家試験の合格に向けて一緒に勉強していきましょう!今回のテーマは、「【わかりやすく】糸賀一雄の名言「この子らを世の光に」の意味とは?」です。では、授業を始めていきましょう。

いっちー教授
いっちー教授

 

*今回の記事の構成として、初めに児童に関する事柄に関する基本問題を出題します。その後、問題の解答解説を行い、理解が深められる構成になっています。

 

問)次の記述のうち、正しいものを1つ選びなさい。

1.日本の工場法では、18歳未満の者が労働時間を制限することを規定した。

2.日本において児童虐待防止に関する最初の法律は、第二次世界大戦後に作られた。

3.石井亮一は、イギリスのバーナードの活動に影響を受けて岡山孤児院を設立した。

4.恤救規則では、15歳以下の幼者について、人民相互の情宜に頼らず、国家が対応すると規定した。

5.糸賀一雄は、近江学園の創設者で、「この子らを世の光に」という言葉をとおして、人間尊重の福祉の取り組みを展開した。

 

答え)5.糸賀一雄は、近江学園の創設者で、「この子らを世の光に」という言葉をとおして、人間尊重の福祉の取り組みを展開した。

 

にゃー吉
にゃー吉
児童に関する法律や取り組みって色々あって分かりにくい。
そうなんですよね。
そこで今回は、児童に関する事柄について一つ一つわかりやすく解説していきます。
いっちー教授
いっちー教授



1限目:工場法は日本で初めての労働者保護法である

まず、工場法についてわかりやすく解説していきます。

選択肢の「1」に注目してください。

 

1.日本の工場法では、18歳未満の者が労働時間を制限することを規定した。

 

この選択肢は、不正解です

日本の工場法は1911年に制定され、1916年施行された日本で初めての労働者保護法です。

その内容として、12歳未満の者の就労を禁止し、15歳未満の年少労働者と女子の12時間以上の労働禁止などが規定されました。

社会福祉士国家試験では、「12歳未満の者」「15歳未満の年少労働者」「12時間以上の労働の禁止」という3点をしっかり押さえておきましょう。どの言葉も、だいたい「12」か「15」という数字が入っているので覚えやすいかと思います。

 

にゃー吉
にゃー吉
でも、何で工場法ができたの?
その背景には、資本主義の発展が大きく関わっています。
いっちー教授
いっちー教授

 

2限目:工場法ができた背景には資本主義の存在がある

次に、工場法ができた理由について簡単にご説明します。

日本は、昔から現在に至るまで資本主義の考え方を導入しています。

資本主義の社会では、資本を持っている者(資本家)が労働者を雇いその労働力をもとに経済が発展してきました

 

にゃー吉
にゃー吉
それって、普通のことじゃん?何が問題なの?
当時、低賃金で長時間労働を強いられるという社会問題がありました。例えば、東京の造船所では、1日10〜11時間の労働があり、それに加えて残業があり、合計13〜16時間もの労働時間が課せられていました。
いっちー教授
いっちー教授
にゃー吉
にゃー吉
1日16時間!!!
今は8時間が標準だから、その2倍だね。
また、紡績工場の女性労働者は、昼夜交代の12時間労働でした。
さらに中小企業では、16〜17時間労働も珍しくありませんでした
いっちー教授
いっちー教授
にゃー吉
にゃー吉
そんなに働いたらみんな倒れちゃうよ。
そうなんです。そこで、日本初の労働者保護法である工場法を作ったんです。
そして1947年に、工場法は「労働基準法」という法律に変わります。
いっちー教授
いっちー教授
にゃー吉
にゃー吉
労働基準法は工場法が受け継がれて、できあがったものなんだね!

 

3限目:日本最初の児童虐待防止法は1933年に誕生した

次に、日本最初の児童虐待防止法について簡単に解説していきます。

選択肢の「2」に注目してください。

 

2.日本において児童虐待防止に関する最初の法律は、第二次世界大戦後に作られた。

 

この選択肢は、不正解です

日本の最初の児童虐待防止法は、1933年に制定されました。

その後、1947年に制定された児童福祉法に吸収される形で廃止となりました

 

つまり、今の児童虐待防止法は、1933年に制定された児童虐待防止法とは別物ということになります。
いっちー教授
いっちー教授
にゃー吉
にゃー吉
日本最初の児童虐待防止法が、1933年ということは、まだ戦時中だよね。
じつは1933年当時、児童の身売り、欠食児童や母子心中などの事件が多く発生していました。
いっちー教授
いっちー教授
にゃー吉
にゃー吉
欠食児童って、何?
欠食児童とは、家庭の経済的困窮により、十分に食事を与えられていない子どものことを言います。戦時中だったので食料がなく、そういった扱いを受ける子どもたちが多かったんです。
いっちー教授
いっちー教授
にゃー吉
にゃー吉
なるほど。そういった子ども達を救済するために、1933年に児童虐待防止法が制定されたんだね。
ついでに、現行の児童虐待防止法は、2000年に公布されたものです。そのため、これらを区別するために1933年の児童虐待防止法のことを「旧・児童虐待防止法」と呼ぶことがあります。
いっちー教授
いっちー教授



4限目:石井十次が作った孤児院

次に、社会福祉士国家試験でよく出題される「石井十次」について学習しておきましょう。

選択肢の「3」に注目してください。

 

3.石井亮一は、イギリスのバーナードの活動に影響を受けて岡山孤児院を設立した。

 

この選択肢は、不正解です

ここが紛らわしいのですが、石井亮一ではなく「石井十次」です。覚え方は、「丘(:岡山孤児院)の上に、10時(:石井十次)に集合ね!」です(笑)

石井十次は、イギリスのバーナードが創設したバーナードホーム、里親制度や小寮舎制等の影響を受け、日本でも似たような活動を行います。そこから、石井十次は、日本の児童養護の先駆者として岡山孤児院を設立しました

 

イギリスのバーナードも、社会福祉士国家試験では本当によく出てきます。
いっちー教授
いっちー教授
にゃー吉
にゃー吉
バーナードさんが作ったから「バーナードホーム」なんだね!
自分の名前を入れてくれているから覚えやすいね(笑)
あと、「丘(:岡山孤児院)の上に、10時(:石井十次)に集合ね!で、石井十次は岡山孤児院を創設した。」です(笑)ここは、間違いないでくださいね!
いっちー教授
いっちー教授

 

5限目:恤救規則が誕生した背景

次に、恤救規則についてわかりやすく解説していきます。

選択肢の「4」に注目してください。

 

4.恤救規則では、15歳以下の幼者について、人民相互の情宜に頼らず、国家が対応すると規定した。

 

この選択肢は、不正解です

正解は、「恤救規則では、人民相互の情誼による救助血縁や地縁等によりお互いに助け合うことを求め極貧独身である障害者、老人、病人、13歳以下の孤児などが救済対象とされた。」です。

 

そもそも、恤救規則とは何なのでしょうか。

余談ですが、恤救規則という漢字の読みは、(じゅっきゅうきそく)です

恤救規則が整備されたのは、1874年です。日本では、明治時代のことです。

明治時代初期は、「家族や隣・近所の人の助け合いにより、なんとか生活していこう…。」という時代でした。また当時は、大家族が当たり前の時代でした。

そのため、地域住民との結びつきもあったため、それでなんとか生活していたんです。しかし、近隣住民や家族からの助けが得られないという人も多くいました

そういった人の最後の砦として、恤救規則がありました。そのため、恤救規則の対象者は非常に限定的です。具体的には、血縁関係を持った人が全くいないかつ隣・近所に頼れる人がいない人を救済の対象にするというものでした。

このような人のことを、「無告ノ窮民」と呼びます。

 

にゃー吉
にゃー吉
でも無告ノ窮民の人に対して、どういう救済をするの?
良い質問ですね!結論から言うと、現金給付を行います。
具体的には、70歳以上の高齢者には年間1石8斗分に相当する現金を支給します。
また、13歳以下の若者には年間7斗分の下米(げまい)に相当する現金が給付されました。
いっちー教授
いっちー教授
にゃー吉
にゃー吉
いつの時代も、お金がないと生きていけないんだね。

 

6限目:糸賀一雄が創設した近江学園

最後に、糸賀一雄について学習しておきましょう。

選択肢の「5」に注目してください。

 

5.糸賀一雄は、近江学園の創設者で、「この子らを世の光に」という言葉をとおして、人間尊重の福祉の取り組みを展開した。

 

この選択肢は、正解です

糸賀一雄は、1946年知的障害児のための施設である近江学園」を創設しました。

その後、1963年重症心身障害児施設であるびわこ学園」を創設した。

また、この糸賀一雄ですが、社会福祉士国家試験だけでなく、福祉の業界ではかなりの有名人です。

なので、今回のテーマを機に覚えちゃいましょう(笑)

 

にゃー吉
にゃー吉
でも、糸賀一雄さんってどんな人なの?
自分の人生を、障害福祉に注いだ人だね。
いっちー教授
いっちー教授

 

7限目:糸賀一雄は障害福祉に人生をかけた

続いて、糸賀一雄について簡単にご説明します。

糸賀一雄は、1914年、鳥取県で生まれ、母子家庭で育ちました。また、高校時代にはキリスト教に入信しています。その後、戦災孤児障害児のために様々な活動を行いました。

当時、日本国家は、障害者に対する法や概念が全くありませんでした。今の社会では、障害者差別や障害者雇用という話になりますが、当時はそんな言葉なんて出てきませんでした。

それどころか、「障害者(障害児)って何?」という時代です。

そこで、糸賀一雄は、障害児に対する理解を深めるための一つの方法として、「近江学園」を創設しました。

 

にゃー吉
にゃー吉
今でこそ、障害者(障害児)という考え方が当たり前だけど、昔からあった考えではなかったんだね。
そうですね。
そして、糸賀一雄は、「この子らを世の光に」という有名な言葉を残しています。
いっちー教授
いっちー教授

 

糸賀一雄は、「この子らを世の光に」という有名な言葉を残しています。

※余談ですが、これはかなり有名な言葉です。私は大学時代、あまり勉強していませんでしたが、唯一この言葉だけは覚えています(笑)

じつは、糸賀一雄が残した「この子らを世の光に」というフレーズのモデルは、聖書の中にあると言われています。(もともと、糸賀一雄はキリシタンですからね。)

 

ただこの言葉は、「障害者(障害児)の地位を上げろ!」という意味ではありません。

世の光」というのは、誰もが潜在的に持つ「人間の光のこと」を意味します。そして、そんな光を持つ子どもたちが「あるがままを表現できる環境を作っていきたい。」という思想なんです。

 

じつは、この考え方は今でも生きています。特に、ノーマライゼーションやソーシャルインクルージョンなどは、この考え方とよく似ています。
いっちー教授
いっちー教授
にゃー吉
にゃー吉
障害を持っていても、それをあるがままに受け入れられる社会を作ることが大事なんだね。

 

まとめ

最後に今回のテーマである「【わかりやすく】糸賀一雄の名言「この子らを世の光に」の意味とは?」のおさらいをしておきましょう。

1.日本の工場法では、12歳未満の者の就労を禁止し、15歳未満の年少労働者と女子の12時間以上の労働禁止などを規定した。

2.日本において児童虐待防止に関する最初の法律は、第二次世界大戦前に作られた。

3.石井十次は、イギリスのバーナードの活動に影響を受けて岡山孤児院を設立した。

4.恤救規則では、人民相互の情誼による救助血縁や地縁等によりお互いに助け合うことを求め極貧独身である障害者、老人、病人、13歳以下の孤児などが救済対象とされた。

5.糸賀一雄は、近江学園の創設者で、「この子らを世の光に」という言葉をとおして、人間尊重の福祉の取り組みを展開した。

 

にゃー吉
にゃー吉
今回は、糸賀一雄についてだいぶ学ぶことができました!
糸賀一雄は、社会福祉士国家試験にもよく出題されますが、福祉の業界で働く人は知っておきたい人物です。なので、今回のテーマを機にしっかり覚えておきましょう。
いっちー教授
いっちー教授

 

福祉イノベーションズ大学では、社会福祉士国家試験の合格に向けて試験に出る箇所を中心に、情報発信をしています。

参考書や問題集を解いただけではわからない…。」という方は、今後も参考にしてください!

今回の授業は、以上です!



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